「夏の砂の上」(2025年映画版)
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。

松田正隆さんが1998年に発表した、
代表作の1つである同題の戯曲を、
玉田真也監督が再構成した映画版が、
今ロードショー公開されています。
この原作は栗山民也さんが演出して、
田中圭さんと山田杏奈さんが出演した舞台を観ています。
平田オリザさんの系譜に連なる、
舞台上で演劇的盛り上がりを作ることをせず、
余白を楽しむタイプの「静かな」お芝居で、
正直結構辛い観劇でした。
ただ、この作品の真価を、
まだ理解していないという気持ちがあったので、
この作品をより深く理解したいという思いで、
今回の映画版に足を運びました。
長崎の田舎町が舞台で、
オダギリジョーさん演じる主人公は、
5歳になる直前の息子を、
大雨の日に事故で失い、
それから松たか子さん演じる妻との関係も悪化して、
勤めていた造船所が潰れて失職するのと時期を同じくして、
妻も家を出てしまいます。
その妻は実は造船所で仲の良かった同僚と不倫をしていて、
それを知った主人公の心は激しく乱れ、
再就職先の飲食店で仕事中に、
左手の指3本を切り落としてしまいます。
そうした悲惨のつるべ打ちのような主人公、
聖書のヨブ記のヨブのような主人公の、
表面的には何も劇的なことのない日常を、
映画は淡々と描いて行きます。
物語の核になっているのは、
主人公の満島ひかりさん演じる奔放な妹の、
高石あかりさん演じる虚無的な娘との、
短期間の奇妙な同居生活で、
それは唐突に始まり、
唐突に終わってしまうのですが、
主人公はおそらくその少女との、
儚い糸のような結び付きのみを心の拠り所として、
当面は生き続けて行くのだろうなあ、
というような予感と共に物語は終わります。
舞台を観た時よりは、
この作品を深く理解した、
という気はしましたが、
それでも「なかなか難しいなあ」、
という印象は残りました。
松田正隆さんの戯曲は、
一筋縄では行きません。
映画は舞台版を、
ほぼ忠実に再現していますが、
舞台版は主人公の家の居間のみで展開されるので、
具体的なイメージが沸かない部分もあるのですが、
映画は家の位置関係や、
少女のバイト先の様子などを丁寧に描写しているので、
特に舞台版では台詞でしか説明されない、
少女の「不思議ちゃん」の様子が、
分かり易くなった、というメリットがあります。
また細部では、
たとえば原作にあった息子の位牌の移動を、
映画では台詞のみでしていないなど、
違いのある部分もありました。
物の移動に表面的なものを超えた意味を持たせるのは、
平田オリザさんや岩松了さんの戯曲にも特徴的な部分で、
原作では死んだ子供の位牌の移動と、
少女が買った帽子が最後に主人公に渡される点が、
この作品でも印象的かつ深い意味を持つディテールです。
映画版では位牌の移動は、
さらっと流す程度におさめていますが、
帽子の移動については、
原作より念入りに描いています。
主人公は妻が同僚と不倫していることを、
ほぼ明確に知っていながら、
そこから目を背けているのですが、
そのニュアンスも舞台版より明確に出ていたと思います。
この作品では雨の降らない日が長く続いていて、
家の周辺が断水することで、
その「渇き」はより増幅されるのですが、
主人公の妻が出て行って、
少女の恋も破れた時に、
不意に大雨が降り、
天の采配によって「渇き」が一時的に満たされます。
この「渇き」は、
勿論肉体のみならず、精神の渇きのことでもあるのですが、
途中の少女の台詞で、
原爆投下の記憶のようなものが召喚され、
その渇きは、
何か神話的な色彩を帯びて行きます。
中段での大雨の瞬間こそが、
おそらくこの作品全体の肝で、
神の不在の中で進行するこの神話的物語の中で、
そこのみがある種の「奇跡」を感じさせます。
それを主人公と少女2人の精神の「渇き」が、
共に満たされ、
2つの孤独な魂が共鳴する瞬間として描いた点が、
この作品の最も優れたところだと思います。
ただ、この「渇き」の感じは、
舞台版でもあまり切実には感じられませんでしたし、
今回の映画版でも、
干上がった蝉の死体などで、
より具体的に示されてはいたものの、
それが観客に体感されるような物には、
なっていなかったように思います。
「渇き」というのは、
活字では表現出来ても、
映像や舞台で表現することは、
難しい感覚であるような気がします。
この作品で難しいのは、
主人公の妻の表現で、
都合3回この作品で登場する主人公の妻は、
最初の場面では、
夫との関係を続けることの苦しみと、
不倫を隠していることの苦しみで、
非常に不安定な様子でいるのですが、
中段で不倫の事実が明確化して、
主人公との衝突があり、
3度目の場面では、
夫と別れて別の男性との生活を続けることを、
明確にしたことで、
その苦痛から解放された姿を見せます。
難しいのは、
中段での2人の衝突が、
原作でも映画でもオフステージで起こり、
実際に主人公が妻に暴力を振るったのか、
それとも物に当たり散らしただけなのか、
観客に知らされない、という点にあります。
これは明らかに意図的なもので、
そのあるなしで、
主人公の見え方はかなり変わってしまうのですが、
それが完全に伏せられている訳です。
映画版の松たか子さんは、
主人公と別れて、新しい生活に入る場面で、
それほど晴れ晴れとはしていないのですね。
不倫の疚しさや夫への複雑な思いが、
そこに表現されているのだと思いますが、
おそらく原作の意図はそうではなくて、
妻は最初とは人間が変わったように、
晴れ晴れとしていることが正解なのではないかと、
舞台版と映画版を見比べて、
個人的にはそう感じました。
そんな訳で、
原作が一筋縄ではいかないものなので、
所々に違和感や不満はあるのですが、
トータルには丁寧に原作の良さを映像化した、
良質の「原作映画」で、
特にオダギリジョーさんと高石あかりさんの演技には、
見応えがあったと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
松田正隆さんが1998年に発表した、
代表作の1つである同題の戯曲を、
玉田真也監督が再構成した映画版が、
今ロードショー公開されています。
この原作は栗山民也さんが演出して、
田中圭さんと山田杏奈さんが出演した舞台を観ています。
平田オリザさんの系譜に連なる、
舞台上で演劇的盛り上がりを作ることをせず、
余白を楽しむタイプの「静かな」お芝居で、
正直結構辛い観劇でした。
ただ、この作品の真価を、
まだ理解していないという気持ちがあったので、
この作品をより深く理解したいという思いで、
今回の映画版に足を運びました。
長崎の田舎町が舞台で、
オダギリジョーさん演じる主人公は、
5歳になる直前の息子を、
大雨の日に事故で失い、
それから松たか子さん演じる妻との関係も悪化して、
勤めていた造船所が潰れて失職するのと時期を同じくして、
妻も家を出てしまいます。
その妻は実は造船所で仲の良かった同僚と不倫をしていて、
それを知った主人公の心は激しく乱れ、
再就職先の飲食店で仕事中に、
左手の指3本を切り落としてしまいます。
そうした悲惨のつるべ打ちのような主人公、
聖書のヨブ記のヨブのような主人公の、
表面的には何も劇的なことのない日常を、
映画は淡々と描いて行きます。
物語の核になっているのは、
主人公の満島ひかりさん演じる奔放な妹の、
高石あかりさん演じる虚無的な娘との、
短期間の奇妙な同居生活で、
それは唐突に始まり、
唐突に終わってしまうのですが、
主人公はおそらくその少女との、
儚い糸のような結び付きのみを心の拠り所として、
当面は生き続けて行くのだろうなあ、
というような予感と共に物語は終わります。
舞台を観た時よりは、
この作品を深く理解した、
という気はしましたが、
それでも「なかなか難しいなあ」、
という印象は残りました。
松田正隆さんの戯曲は、
一筋縄では行きません。
映画は舞台版を、
ほぼ忠実に再現していますが、
舞台版は主人公の家の居間のみで展開されるので、
具体的なイメージが沸かない部分もあるのですが、
映画は家の位置関係や、
少女のバイト先の様子などを丁寧に描写しているので、
特に舞台版では台詞でしか説明されない、
少女の「不思議ちゃん」の様子が、
分かり易くなった、というメリットがあります。
また細部では、
たとえば原作にあった息子の位牌の移動を、
映画では台詞のみでしていないなど、
違いのある部分もありました。
物の移動に表面的なものを超えた意味を持たせるのは、
平田オリザさんや岩松了さんの戯曲にも特徴的な部分で、
原作では死んだ子供の位牌の移動と、
少女が買った帽子が最後に主人公に渡される点が、
この作品でも印象的かつ深い意味を持つディテールです。
映画版では位牌の移動は、
さらっと流す程度におさめていますが、
帽子の移動については、
原作より念入りに描いています。
主人公は妻が同僚と不倫していることを、
ほぼ明確に知っていながら、
そこから目を背けているのですが、
そのニュアンスも舞台版より明確に出ていたと思います。
この作品では雨の降らない日が長く続いていて、
家の周辺が断水することで、
その「渇き」はより増幅されるのですが、
主人公の妻が出て行って、
少女の恋も破れた時に、
不意に大雨が降り、
天の采配によって「渇き」が一時的に満たされます。
この「渇き」は、
勿論肉体のみならず、精神の渇きのことでもあるのですが、
途中の少女の台詞で、
原爆投下の記憶のようなものが召喚され、
その渇きは、
何か神話的な色彩を帯びて行きます。
中段での大雨の瞬間こそが、
おそらくこの作品全体の肝で、
神の不在の中で進行するこの神話的物語の中で、
そこのみがある種の「奇跡」を感じさせます。
それを主人公と少女2人の精神の「渇き」が、
共に満たされ、
2つの孤独な魂が共鳴する瞬間として描いた点が、
この作品の最も優れたところだと思います。
ただ、この「渇き」の感じは、
舞台版でもあまり切実には感じられませんでしたし、
今回の映画版でも、
干上がった蝉の死体などで、
より具体的に示されてはいたものの、
それが観客に体感されるような物には、
なっていなかったように思います。
「渇き」というのは、
活字では表現出来ても、
映像や舞台で表現することは、
難しい感覚であるような気がします。
この作品で難しいのは、
主人公の妻の表現で、
都合3回この作品で登場する主人公の妻は、
最初の場面では、
夫との関係を続けることの苦しみと、
不倫を隠していることの苦しみで、
非常に不安定な様子でいるのですが、
中段で不倫の事実が明確化して、
主人公との衝突があり、
3度目の場面では、
夫と別れて別の男性との生活を続けることを、
明確にしたことで、
その苦痛から解放された姿を見せます。
難しいのは、
中段での2人の衝突が、
原作でも映画でもオフステージで起こり、
実際に主人公が妻に暴力を振るったのか、
それとも物に当たり散らしただけなのか、
観客に知らされない、という点にあります。
これは明らかに意図的なもので、
そのあるなしで、
主人公の見え方はかなり変わってしまうのですが、
それが完全に伏せられている訳です。
映画版の松たか子さんは、
主人公と別れて、新しい生活に入る場面で、
それほど晴れ晴れとはしていないのですね。
不倫の疚しさや夫への複雑な思いが、
そこに表現されているのだと思いますが、
おそらく原作の意図はそうではなくて、
妻は最初とは人間が変わったように、
晴れ晴れとしていることが正解なのではないかと、
舞台版と映画版を見比べて、
個人的にはそう感じました。
そんな訳で、
原作が一筋縄ではいかないものなので、
所々に違和感や不満はあるのですが、
トータルには丁寧に原作の良さを映像化した、
良質の「原作映画」で、
特にオダギリジョーさんと高石あかりさんの演技には、
見応えがあったと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
この記事へのコメント