「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。

スペインのペドロ・アルモドバル監督が脚本・監督を務め、
ティルダ・スウィントンさんとジュリアン・ムーアさんが競演した、
ニューヨークを舞台にしたスペイン映画で、
ベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞しています。
ジャーナリストとして第一線で活躍していた、
ジュリアンさんとティルダさんですが、
ティルダさんは娘さんとの不和などで孤独な境遇にあり、
末期の子宮頸がんに罹患して、
医師からは余命1年を宣告されています。
おそらくは親友を超えた間柄であろうジュリアンさんと、
久しぶりに再会したティルダさんは、
自分は医療にこれ以上縋ることはせず、
ネットで入手した謎の毒薬を使って、
自死するつもりだとジュリアンさんに告げます。
でも、死ぬときには隣の部屋にあなたがいて欲しい、
とティルダさんはジュリアンさんに頼むので、
色々と葛藤がありながら、
最終的にはジュリアンさんはその願いを受け入れ、
とてもお洒落な郊外の別荘で、
最後の時を迎えることになります。
閉ざされた環境でほんの刹那の時間、
離れがたく結びついた2人が、
死を意識して愛し合うというのは、
昔から映画やドラマの定番の設定で、
僕もこうしたテーマは大好きですし、
過去には「ドクトル・ジバゴ」や「リービング・ラスベガス」、
「愛のコリーダ」など大好きな名作が揃っています。
この作品もその系譜に連なるのかしらと、
期待を持って鑑賞したのですが、
そうした熱情のようなものはあまりなくて、
ある種の諦念と破滅への仄かな欲望のようなものを秘めつつ、
美しく静かに物語は進み、そのまま終わりました。
これは多分に最近のヨーロッパ映画的で、
ヨーロッパのインテリ層の白色人種の思想背景が、
そのベースにあるような気がします。
登場するのも、メインは大学教授やジャーナリストなどの、
インテリのエリートですし、
対比されて侮蔑の対象となっているのは、
医療従事者や警察官などの人達です。
「どうせ私たちの高邁な理想は、
馬鹿な大衆には届かないし、
世界はこうして静かに滅んでいくんだ」
とでも言いたげな気分が強く立ち込めます。
「逆転のトライアングル」も「憐れみの3章」も、
結果的にはそんな感じの映画でした。
この映画も基本的にはその系譜に連なる1本であるように、
個人的には思いました。
映像は美しく、独特の色彩感覚で、
ジョイスの「ダブリン市民」とその映画化の「ザ・デッド」をモチーフに、
世界の破滅を織り込んだような、
終末感溢れるラストも魅力です。
ただ、編集はお世辞にも上手いとは言えず、
前半に差し挟まれるティルダさんの回想シーンも、
自主製作映画のような安手な感じで違和感があります。
こうしたギクシャクした感じは、
母国語以外で海外設定の映画を撮った、
ヨーロッパの監督にありがちな感じです。
バスター・キートンの喜劇で2人の主人公がおおらかに笑うのは、
ウディ・アレンのマルクス兄弟と一緒で、
いつも思うのですが、
インテリ層の映画人のこうしたセンスには、
「結局こねくりまわした結果がいつも通りかい」
というツッコミを入れたくなるところです。
怪女優(良い意味で)のティルダさんは、
「サスペリア」での、
老人と魔女など3役も壮絶でしたが、
今回の親子2役も、
勿論CGの力は借りながらも、
リアルで不気味なのがさすがです。
ジュリアンさんの安定感もさすがの貫禄で、
この2人の演技合戦を見るだけで、
まずは納得という感じの作品ではありました。
現代ヨーロッパ知識人の葛藤がベースにある作品なので、
全ての方にお勧め出来る映画ではなく、
一部の知識人や批評家の方の絶賛に影響されて鑑賞すると、
肩透かしの感じを味わうかも知れません。
その裏にある絶望に共感する人は絶賛で、
あまりピンと来ない人には、
「結局何が言いたいの?」と思えるような映画です。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。

スペインのペドロ・アルモドバル監督が脚本・監督を務め、
ティルダ・スウィントンさんとジュリアン・ムーアさんが競演した、
ニューヨークを舞台にしたスペイン映画で、
ベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞しています。
ジャーナリストとして第一線で活躍していた、
ジュリアンさんとティルダさんですが、
ティルダさんは娘さんとの不和などで孤独な境遇にあり、
末期の子宮頸がんに罹患して、
医師からは余命1年を宣告されています。
おそらくは親友を超えた間柄であろうジュリアンさんと、
久しぶりに再会したティルダさんは、
自分は医療にこれ以上縋ることはせず、
ネットで入手した謎の毒薬を使って、
自死するつもりだとジュリアンさんに告げます。
でも、死ぬときには隣の部屋にあなたがいて欲しい、
とティルダさんはジュリアンさんに頼むので、
色々と葛藤がありながら、
最終的にはジュリアンさんはその願いを受け入れ、
とてもお洒落な郊外の別荘で、
最後の時を迎えることになります。
閉ざされた環境でほんの刹那の時間、
離れがたく結びついた2人が、
死を意識して愛し合うというのは、
昔から映画やドラマの定番の設定で、
僕もこうしたテーマは大好きですし、
過去には「ドクトル・ジバゴ」や「リービング・ラスベガス」、
「愛のコリーダ」など大好きな名作が揃っています。
この作品もその系譜に連なるのかしらと、
期待を持って鑑賞したのですが、
そうした熱情のようなものはあまりなくて、
ある種の諦念と破滅への仄かな欲望のようなものを秘めつつ、
美しく静かに物語は進み、そのまま終わりました。
これは多分に最近のヨーロッパ映画的で、
ヨーロッパのインテリ層の白色人種の思想背景が、
そのベースにあるような気がします。
登場するのも、メインは大学教授やジャーナリストなどの、
インテリのエリートですし、
対比されて侮蔑の対象となっているのは、
医療従事者や警察官などの人達です。
「どうせ私たちの高邁な理想は、
馬鹿な大衆には届かないし、
世界はこうして静かに滅んでいくんだ」
とでも言いたげな気分が強く立ち込めます。
「逆転のトライアングル」も「憐れみの3章」も、
結果的にはそんな感じの映画でした。
この映画も基本的にはその系譜に連なる1本であるように、
個人的には思いました。
映像は美しく、独特の色彩感覚で、
ジョイスの「ダブリン市民」とその映画化の「ザ・デッド」をモチーフに、
世界の破滅を織り込んだような、
終末感溢れるラストも魅力です。
ただ、編集はお世辞にも上手いとは言えず、
前半に差し挟まれるティルダさんの回想シーンも、
自主製作映画のような安手な感じで違和感があります。
こうしたギクシャクした感じは、
母国語以外で海外設定の映画を撮った、
ヨーロッパの監督にありがちな感じです。
バスター・キートンの喜劇で2人の主人公がおおらかに笑うのは、
ウディ・アレンのマルクス兄弟と一緒で、
いつも思うのですが、
インテリ層の映画人のこうしたセンスには、
「結局こねくりまわした結果がいつも通りかい」
というツッコミを入れたくなるところです。
怪女優(良い意味で)のティルダさんは、
「サスペリア」での、
老人と魔女など3役も壮絶でしたが、
今回の親子2役も、
勿論CGの力は借りながらも、
リアルで不気味なのがさすがです。
ジュリアンさんの安定感もさすがの貫禄で、
この2人の演技合戦を見るだけで、
まずは納得という感じの作品ではありました。
現代ヨーロッパ知識人の葛藤がベースにある作品なので、
全ての方にお勧め出来る映画ではなく、
一部の知識人や批評家の方の絶賛に影響されて鑑賞すると、
肩透かしの感じを味わうかも知れません。
その裏にある絶望に共感する人は絶賛で、
あまりピンと来ない人には、
「結局何が言いたいの?」と思えるような映画です。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
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